性善説と性悪説
私は基本、性悪説で人を見ているようです。
誰しもが、自分自身、その次はより自分に近しい人間が大切。どんなに良い人であっても、それらを脅かす存在があったとしたら、やはりそれを排除しようとすると思います。
それは性悪説とは関係ないのではないか、と思われるかもしれませんが、要は自分にとって得か損かのジャッジが行われるその心の動き自体に、その人の業を感じる、その心の動き自体を私は性悪説に結びつけています。
逆に性善説は、私にとっては「自分を差し置いても他人を一番に考え、行動する人」。これは、自分にとっての相手の距離感は関係ありません。要は、誰にでも。損得関係なく。博愛主義者。
そんな人、いないですよね。
だから私は、今までずっと性悪説で生きてきました。
でも、ちょっと変わりたいと思う。
性善説まで極端な考え方をしなかったとしても、人はそこまで悪意を持っているわけではないと信じてみようと思う。
今までは、最悪のことが起こった場合に極力傷つかないよう、相手に期待せずに裏を読み、警戒して生きてきました。
しかし。これがまあしんどい。
常に気を張っていて、誰にも隙を見せず、何か裏切りや期待外れなことが起こったとしても、「いつかこうなると思ってた」と自分にいい聞かせて、分かってたことだと誤魔化していた。
でもそれって、結果論でこれからも起こることだとしても、それが起こるまでずーーーーっと疑心暗鬼で生きているよりは、その時その時の相手を信じて気楽に生きた方が楽じゃないかとやっと最近になって気づいてきた。
相手を疑う心の動きは癖になってるし、すぐに相手を全部信じることは難しい。
でも、今年はそれにチャレンジしてみたいと思う。
もっと、楽に生きるために。
自分を開放します。